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<title>クラシックＣＤ感想メモ</title>
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<description>日々聴いたクラシックＣＤの感想を随時掲載しています。</description>
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<title>内田光子のピアノ・リサイタル（サントリーホール１１／２４）</title>
<description> 今日はサントリーホールで内田光子のピアノ・リサイタルを聴いてきました。演目は以下の通りです。①モーツァルト　ロンドK511②ベルク　ピアノ・ソナタ③ベートーヴェン　ピアノ・ソナタ第２８番④シューマン　幻想曲（以下、アンコール）⑤シューベルト　即興曲OP.90-3⑥モーツァルト　ピアノソナタK310より第2楽章私としては、特に②と③を目当てに、ホールに足を運びました。というのも、両曲とも内田光子は既にＣＤ録音済みの作品なの
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<![CDATA[ <span style="font-size:11pt;"><br />今日はサントリーホールで内田光子のピアノ・リサイタルを聴いてきました。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/2009-11-24.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/2009-11-24.jpg" alt="2009-11-24" border="0" width="180" height="300" /></a><br /><br />演目は以下の通りです。<br />①モーツァルト　ロンドK511<br />②ベルク　ピアノ・ソナタ<br />③ベートーヴェン　ピアノ・ソナタ第２８番<br />④シューマン　幻想曲<br />（以下、アンコール）<br />⑤シューベルト　即興曲OP.90-3<br />⑥モーツァルト　ピアノソナタK310より第2楽章<br /><br />私としては、特に②と③を目当てに、ホールに足を運びました。というのも、両曲とも内田光子は既にＣＤ録音済みの作品なのですが、いずれも本当に素晴らしいと思える演奏内容なので、それらが実演にかかる以上、万難を排しても聴きに行きたいと思っていたからです。<br /><br />そして、今日耳にした内田光子の実演は、①も含めて、やはりＣＤで聴くよりも一味もふた味も違う印象を受けました。とりわけ弱音のリアリティと、その表出力が段違いで、聴いていて高揚が胸に込み上げてくる瞬間というのがＣＤよりずっと多くて、惹き込まれっぱなしというような、本当に素敵な演奏でした。<br /><br />しかし④に関しては、どうしたことか聴いていて、意外に感銘が伸びなかったというのが率直な印象です。彼女のピアニズムは、明らかに②や③に輪をかけて冴えていると思われたのですが、おそらく問題の所在は、、、<br /><br />そのあたりも含めて、感想は改めて後日に。<br /></span> ]]>
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<dc:subject>コーヒー・ブレイク（雑感など）</dc:subject>
<dc:date>2009-11-24T23:59:56+09:00</dc:date>
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<title>ガーディナー／イングリッシュ・バロック・ソロイスツによるバッハのブランデンブルク協奏曲全集</title>
<description> J.S.バッハ　ブランデンブルク協奏曲全集　ガーディナー／イングリッシュ・バロック・ソロイスツ　ソリ・デオ・グローリア　２００９年ライヴ　SDG707 今月リリースされた、ジョン・エリオット・ガーディナー率いるイングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏による、バッハのブランデンブルク協奏曲全集を聴きました。イングリッシュ・バロック・ソロイスツはマタイ受難曲、ロ短調ミサ、管弦楽組曲全集といったバッハの主要作品
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<![CDATA[ <span style="font-size:11pt;"><br />J.S.バッハ　ブランデンブルク協奏曲全集<br />　ガーディナー／イングリッシュ・バロック・ソロイスツ<br />　ソリ・デオ・グローリア　２００９年ライヴ　SDG707 <br /><a href="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/SDG707.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/SDG707.jpg" alt="SDG707" border="0" width="190" height="170" /></a><br /><br />今月リリースされた、ジョン・エリオット・ガーディナー率いるイングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏による、バッハのブランデンブルク協奏曲全集を聴きました。<br /><br />イングリッシュ・バロック・ソロイスツはマタイ受難曲、ロ短調ミサ、管弦楽組曲全集といったバッハの主要作品を、かつてガーディナーの指揮によりアルヒーフに録音していますが、ブランデンブルク協奏曲は録音していませんでした。今回のリリースは満を持して、というところでしょうか。<br /><br />そのあたりの興味もあり、聴く前にライナーノートをひと通り読んだのですが、それによると演奏形態が一風変わっていて、６曲の協奏曲のうち、ガーディナーが指揮をしている曲は第１と第２の協奏曲のみであり、残りの４曲は指揮者を置かずに演奏されている（そして、その演奏をガーディナーは客席で聴衆と一緒に聴いていた）と書かれています。<br /><br />その理由としては、この協奏曲集の演奏には基本的に指揮者は要らないとガーディナーが考えていること、ただ、第１と第２の協奏曲については、編成が大きいので、響きのバランスをコントロールするために指揮者を置く方が好ましいという風に考えていることが述べられています。<br /><br />さらにガーディナーのコメントで興味を惹くことに、彼はこの協奏曲集を本質的にダンス音楽であると規定したうえで、「ジャズ、ロックンロールにすら匹敵する音楽である」とまで述べているのです。<br /><br />以上を踏まえて、いざ聴いてみると、確かになるほど、と思わせるような感じのする演奏ですね。協奏曲第１番のホルンや第２番のトランペットの爽快な鳴りっぷりは、何となくジャズ演奏を思わせる雰囲気を充分に満たしていますし、ザクザクとした弦のリズムの切れ味も素晴らしく、さすがにロックンロールとまでいうには厳しいとしても、とにかく聴いていて胸のすくような、快適で、気持のいい演奏で、フレージングのそこかしこに、洗練されたバロック・アンサンブルならではのウィットな妙感が充溢しています。<br /><br />しかし、ひと通り聴いて少し気になったのは、指揮者を置いた第１と第２の協奏曲と、それ以外の４曲の協奏曲との、表情の強さに、やや落差があるように思われた点です。というのも、私が聴いた限りでは、全６曲のうち、どうも指揮者ありの第１・第２協奏曲の方が、指揮者なしの他４曲と比べて、ひとまわり演奏が活き活きとしているように思われるからです。<br /><br />つまり、第１・第２協奏曲ではホルンやトランペットの痛快なまでに闊達な吹き回しを中心に、それこそ表情が冴えわたっているのですが、それに比べると残り４曲はおしなべて表情が穏健で、音楽の生彩としても最初の２曲の域からすると少し聴き劣りがする印象を受けます。<br /><br />とはいえ、聴き劣るといってもあくまで第１・第２協奏曲と比べての話であり、いずれも退屈からは程遠い演奏であることは言うまでもないですし、むしろ、指揮者なしのピリオドアンサンブルが、これほど技術的に安定無比な演奏を成し遂げられるという成果自体に目を向けるべきなのかもしれません。<br /><br />いずれにしても、ピリオドアンサンブルによるバッハ演奏が既に成熟期にある現在において、むしろ成熟を拒んだようなコンセプトに基づく、これほどに溌剌としたバッハを耳にすることができるのは一つの福音のように思えます。久しぶりに、ブランデンブルク協奏曲のフレッシュな演奏を満喫しました。<br /></span> ]]>
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<dc:subject>2001年以降の録音</dc:subject>
<dc:date>2009-11-23T23:59:19+09:00</dc:date>
<dc:creator>hkawahara</dc:creator>
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<title>新国立劇場のベルク「ヴォツェック」の感想</title>
<description> 昨日（１１／２１）の新国立劇場、ベルク「ヴォツェック」の感想です。まず演出の印象から書きます。本公演はバイエルン州立歌劇場との共同制作によるものだそうで、同歌劇場において昨年の１１月に上演された「ヴォツェック」の演出がそのままの形で用いられているとのことでした。ドイツの演出家アンドレアス・クリーゲンブルクの手による演出で、その強烈な舞台場景には確かに率直に圧倒させられるものがありましたし、その意味
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<![CDATA[ <span style="font-size:11pt;"><br />昨日（１１／２１）の新国立劇場、ベルク「ヴォツェック」の感想です。<br /><br />まず演出の印象から書きます。本公演はバイエルン州立歌劇場との共同制作によるものだそうで、同歌劇場において昨年の１１月に上演された「ヴォツェック」の演出がそのままの形で用いられているとのことでした。<br /><br />ドイツの演出家アンドレアス・クリーゲンブルクの手による演出で、その強烈な舞台場景には確かに率直に圧倒させられるものがありましたし、その意味では称賛に値する演出だと思うのですが、いくつか引っ掛かりも感じました。<br /><br />演出全体の印象を一言でいうなら、このオペラの残酷な側面、つまりヴォツェックとその家族に対する、周囲の人々の悪意が、えげつないまでに剥き出しに描かれた舞台、という感じでしょうか。これは確かに観ていておぞましい印象を受けましたし、人によってはそれこそ吐き気を催すというくらいのものではないかと思われるほどでした。第２幕のラストで、ヴォツェックが鼓手長に打ちのめされた後、周囲の兵隊たちからも殴る蹴るのリンチを受ける、第３幕のラストで、ヴォツェックの息子に両親の死を告げた子供たちが、息子に寄ってたかって石を投げつける、、、まあ何とも酷いものでした。<br /><br />このあたりのコンセプトは実に徹底されていて、観た目においても、ヴォツェックとその家族以外のすべての登場人物には不気味な化粧が施されていましたし、大尉と医者に到っては、とても人間とは思えないような奇矯な外観が与えられていて、むしろ理性を失いつつあるはずのヴォツェックの方が、まともな人間に見えるように仕向けているのか、とさえ思われるくらいでした。<br /><br />このあたりが、実は私が観ていて少し引っ掛かった点でした。というのも、そもそも周囲の人物のスタイルがあまりに誇張され過ぎて、かえってマンガみたいになってしまい、むしろ現実感を低めているように見えましたし、それ以上に、ヴォツェックが必要以上に「まとも」に見えてしまうようなバランスに違和感を覚えたからです。<br /><br />そもそも悪いのは社会の方で、ヴォツェックは被害者だ、悪くない、なんていう主張はもちろん的外れですが、それは例の秋葉原連続殺傷事件などを思い浮かべれば明白なように、いくら周囲から迫害されていても、殺人自体を正当化することには一切ならないからですね。それがどうも「ヴォツェックがまともでない」という演出上の視点というか工夫が、観ていてあまり感じられなかったので、バランス的にどうなんだろうという疑問を、ちょっと抱いたのでした。<br /><br />舞台上の全面に張られた水も、また演出における大きな特徴となっていましたが、これについては公演プログラムに演出家のコメントが記載されています。いわく「水のぴちゃぴちゃという音」を「自然の音による伴奏」と規定した上で、「至高の芸術である音楽に対して、それとは違う音を対抗させたかった」と述べています。<br /><br />そのアイディア自体は確かに新鮮で、観ていて実直に感心させられました。ただ、少し気になったのは、その水のぴちゃぴちゃいう音が時として、せっかくのオーケストラの響きを無粋にかき消してしまったことですね。例えば第３幕の終盤、ヴォツェックが溺死した後に奏でられるインヴェンションのシーンで、その最強奏を過ぎて響きがピアニシモに沈静していこうとする時、いきなり子供たちが水をぴちゃぴちゃさせながら一斉に飛び出してくるので、肝心の音楽がはっきり聴こえない、など。<br /><br />というように、幾ばくかの疑問も残る演出だったのですが、何しろ見応えのある舞台でしたし、その点では観ていて十分に満足のいくものでした。「ヴォツェック」という異常な雰囲気の強いオペラに対し、「異常には異常をもって対抗する」という発想自体は正鵠を射たものだと思いますし、その旺盛な表現意欲といい、全体的にはかなり好感の持てる演出であったように思います。<br /><br />ヴォツェック役トーマス・ヨハネス・マイヤー：<br />ヨハネス・マイヤーは、今年９月のミラノ・スカラ座来日公演のヴェルディ「ドン・カルロ」で、本来ロドリーゴを歌う予定だったところを、体調不良で来日キャンセルしていますね。それで私が観た公演では、代わりにダリボール・イェニスがロドリーゴを歌うはめになったのですが、そんなこともあり、今回は大丈夫かなと思っていたら、どうやら無事、大役を果たしました。さしずめ休養十分というところでしょうか。かなり良かったと思います。ヴォツェックは難しい役柄ですので、欲を言えばそれこそキリもないですが、全体に良く声が通っていましたし、後半から終盤あたりで人格的異常に拍車が掛かるあたりも、まさに迫真の表現というべきで、観ていて思わずゾクゾクするくらい、のっぴきならない雰囲気が良く表現されていました。<br /><br />マリー役ウルズラ･ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン：<br />歌唱力、演技力ともに高水準（第１幕の第３場で、意味不明な話をするヴォツェックに「フラ～ンツ」と叫ぶあたりの絶望的なニュアンスなど、すごく良かった）なのですが、惜しむらくは全体に高音の伸びが突き抜け切らない点です。特に第２幕１場ラストで絶叫する、マリー最高の決めセリフ「この世の人間すべてが地獄に落ちればいい」がいまひとつでした。ここは音域が明らかにソプラノ歌手向きで、メゾにはキツいですね。やはり、マリーはメゾ・ソプラノよりソプラノ歌手の方が合うように思います。<br /><br />ヘンヒェン指揮による東京フィルの演奏：<br />最初のうちは木管の音色にギラッとした強さが希薄だったり、トッティで響きが必要以上に丸っこかったりと、聴いていて正直あまり感心しなかったのですが、中盤以降は見違えるほどに良くなりましたね。特に終盤に関しては文句なしで、もう惹き込まれるばかりでした。ひんやりとしたアンサンブルの放つ音楽の虚無的な緊張感は、耽美な音彩の向こう側に潜んでいるカタストロフの恐怖を、そしてそれが終盤に加速度的に増していく様を、まざまざと表現しているように思えましたし、ここぞという時の破滅的な最強奏の凄味も素晴らしく、特に終盤のインヴェンションでの表出力は抜群で、聴いていて激しく心揺さぶられるものでした。<br /><br />それだけに気になったのが、最弱奏で聴こえる前述の水のぴちゃぴちゃ音で、このせいで本来ピアニッシモの緊張感により導かれるはずの音楽自体の恐怖感が、それなりに薄められているような気がして、ちょっと勿体ないと思いました。<br /></span> ]]>
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<dc:subject>コーヒー・ブレイク（雑感など）</dc:subject>
<dc:date>2009-11-22T23:59:54+09:00</dc:date>
<dc:creator>hkawahara</dc:creator>
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<title>新国立劇場のベルク「ヴォツェック」（１１／２１）</title>
<description> 今日は新国立劇場で、ベルクの歌劇「ヴォツェック」を観ました。指揮はハルトムート・ヘンヒェン、オケは東京フィルハーモニー交響楽団。主要キャストは以下の通りです。ヴォツェック：トーマス・ヨハネス・マイヤーマリー：ウルズラ･ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン鼓手長：エンドリック・ヴォトリッヒアンドレス：高野二郎大尉：フォルカー・フォーゲル医者：妻屋秀和「ヴォツェック」は、新国立劇場では１９９７年の開場以
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<![CDATA[ <span style="font-size:11pt;"><br />今日は新国立劇場で、ベルクの歌劇「ヴォツェック」を観ました。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/2009-11-21.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/2009-11-21.jpg" alt="2009-11-21" border="0" width="180" height="300" /></a><br /><br />指揮はハルトムート・ヘンヒェン、オケは東京フィルハーモニー交響楽団。主要キャストは以下の通りです。<br /><br />ヴォツェック：トーマス・ヨハネス・マイヤー<br />マリー：ウルズラ･ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン<br />鼓手長：エンドリック・ヴォトリッヒ<br />アンドレス：高野二郎<br />大尉：フォルカー・フォーゲル<br />医者：妻屋秀和<br /><br />「ヴォツェック」は、新国立劇場では１９９７年の開場以来、今まで一度も上演に掛かっていなかった演目なのですが、このオペラは２０世紀最高のオペラのひとつとして評価されている作品であり、本来もっと早く上演に掛かって然るべきでしょうね。<br /><br />それだけ需要が少ない、ということなのでしょうか。まさか、最近のような、殊更に貧困問題の深刻化が叫ばれる状況が到来するのを、虎視眈々と伺っていたとか、いうこともないでしょうし、、、<br /><br />今日の公演ですが、なかなか見応えがありました。特に演出は、かなり強烈でしたね。情け容赦の無い、非情を極めたような演出。観ていて正直、そこまでするか、というくらいなものでしたが、このオペラの残酷な側面を、えげつないまでに剥き出しにせしめたという点では、まあ大成功でしょう。<br /><br />そして公演を観終えて、ある小説の一節が私の脳裏に浮かびました。夏目漱石「虞美人草」の中の、以下のくだりです。<br /><br /><blockquote><p>「道義に重（おもき）を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺（あざむ）く。嘲弄（ちょうろう）する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受（きょうじゅ）し得るが故に――喜劇の進歩は底止（ていし）するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下（くだ）る。　<br />　道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄（みだ）りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外（はず）して、死の圜内（けんない）に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌（い）み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫（えいごう）の陥穽（かんせい）なる事を知る。陥穽の周囲に朽（く）ちかかる道義の縄は妄（みだ）りに飛び超（こ）ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」</p></blockquote>（尚、上記テクストはインターネット図書館の<a href="http://www.aozora.gr.jp/" target="_blank" title="青空文庫">青空文庫</a>からコピー＆ペーストさせていただきました）<br /><br />漱石流に言うなら、「ヴォツェック」というオペラは最も偉大な悲劇ということになるかもしれないですね。<br /><br />今日の公演の感想は、改めて後日に。<br /></span> ]]>
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<dc:subject>コーヒー・ブレイク（雑感など）</dc:subject>
<dc:date>2009-11-21T23:59:38+09:00</dc:date>
<dc:creator>hkawahara</dc:creator>
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<title>アムランとタカーチ四重奏団の初共演によるシューマンの室内楽アルバム</title>
<description> シューマン　弦楽四重奏曲第３番、ピアノ五重奏曲　アムラン(pf)　タカーチ四重奏団　ハイペリオン　２００９年　CDA67631ハイペリオンから先般リリースされた、タカーチ四重奏団の演奏によるシューマンの室内楽アルバムを聴きました。シューマンの弦楽四重奏曲第３番とピアノ五重奏曲を組み合わせた内容ですが、ピアノ五重奏曲ではピアノ・ソロを、現代屈指のヴィルトゥオーソピアニスト、マルク＝アンドレ・アムランが務めていて
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<![CDATA[ <span style="font-size:11pt;"><br />シューマン　弦楽四重奏曲第３番、ピアノ五重奏曲<br />　アムラン(pf)　タカーチ四重奏団<br />　ハイペリオン　２００９年　CDA67631<br /><a href="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/CDA67631.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24-origin.fc2.com/c/l/a/clamemo/CDA67631.jpg" alt="CDA67631" border="0" width="170" height="170" /></a><br /><br />ハイペリオンから先般リリースされた、タカーチ四重奏団の演奏によるシューマンの室内楽アルバムを聴きました。<br /><br />シューマンの弦楽四重奏曲第３番とピアノ五重奏曲を組み合わせた内容ですが、ピアノ五重奏曲ではピアノ・ソロを、現代屈指のヴィルトゥオーソピアニスト、マルク＝アンドレ・アムランが務めていて、アムランとタカーチ四重奏団という豪華な共演が実現されているのが興味を惹きます。<br /><br />聴いてみると、最初の弦楽四重奏曲第３番においては、全編において安定した構成感からシューマンならではの幻想的な詩味や叙情性が曖昧なく披歴されていて、聴き進むほどに、その演奏の深い味わいが心に沁み入ってくる思いでした。<br /><br />「幻想的」なのに「曖昧なく」というのは矛盾のようですが、キリッと音像を構成すればするほど、シューマンの音楽の根底に潜んでいる漠とした幻想性、いわばロマン派の情念のようなものが、音楽の表面に立ち現われるというような、そんな感覚ですね。ここぞという時の内燃的なパッションのほとばしりも素晴らしく、ハンガリーの団体でありながら、ドイツものを演奏させたら当代随一のカルテットとも言われる、タカーチ四重奏団の実力がいかんなく発揮された演奏だと思いますし、ブリストルのセント・ジョージ教会のまろやかな残響特性にしても、ここでのシューマンの音楽の性格を考えると、おそらく絶妙ではないでしょうか。<br /><br />続くピアノ五重奏曲ですが、これがまた素晴らしく、その立役者は何といってもアムランのピアノ・ソロです。<br /><br />ここでのアムランのピアニズムは、持ち前の超絶技巧を存分に駆使しながら、シューマンの想定する複雑なピアノの書式に対して何らの曖昧さも残さず、この上ない明晰性でバリバリと音化していきます。明晰に音化すればするぼどシューマンの幻想的詩味が増すというあたりは、まさに先の弦楽四重奏曲第３番と同じ図式であり、その意味では弦楽カルテットとソロの方向性は軌を一にしたものですし、両者の息もピタリとあっていて申し分がありません。<br /><br />しかし、それ以上に私がこの演奏を素晴らしいと感じるのは、全編においてアムランのソロに闊達な訴求力が漲っていて、それが聴いていて痛快極まりないからです。<br /><br />この点、私は<a href="http://clamemo.blog44.fc2.com/blog-entry-168.html" target="_blank" title="今年の春先にリリースされた、アムラン初のショパン・アルバム">今年の春先にリリースされた、アムラン初のショパン・アルバム</a>を耳にした時、その感想として、その演奏技術の凄さに感心しつつも、「このピアニストでなければまず聴けないというような主観的な色付けを伴う表出力の化体の度合いが、このアムランのショパンには相対的に乏しい印象が否めず、そのため圧倒的な技術力のわりには、いまひとつ胸に迫り切らないような煮え切らなさが残ってしまった」と書いたのですが、要するにテクニック以外の主観的な色付けを伴う表出力の化体の度合いが希薄と思えた点が不満だったのでした。<br /><br />それが今回のシューマンでは、スタンスがかなり変化しています。例えば、第１楽章の冒頭でメインのテーマがピアノ・ソロにより強奏提示されるところ、ここをアムランは渾身の力を込めた最強奏で弾き出し、初手から音楽に対する並々ならない意気込みを披露するのですが、ここは実は、スコア上は音量がｆ１つとなっていて、普通はこれほど大胆な打ち込みはしないところです。しかしアムランはそんなこと構うかとばかりにフォルテッシモで出します。<br /><br />そうすると、この同じテーマが再現部のアタマでｆ２つの音量で提示される段ではどうするのかと思って聴いていると、その段(6:12)においては、やはり冒頭と同じくらいの強烈さで押し切っています。つまり明らかにダイナミックレンジを本来のシューマンの指定よりも拡張し、たとえｆ１つであろうと自分がフォルテッシモだと「感じる」ところでは自分の感性を優先してフォルテッシモを付与している、そんな主観的な演奏スタンスが伺われるのです。<br /><br />以上は一例に過ぎず、このシューマンにおいてはアムランならではの主観的な色付けが随所に聴かれ、それが技術一辺倒でない、根元的な表出力に昇華されたような趣きが強く、タカーチ四重奏団という強力なバックアップを得て、聴いていて音楽が痛切に胸に迫ってくるような表情の強さとして結実されている、そんな感じがします。<br /><br />それにしても、仮にアムランがこれほどの表現力を完璧に備えたとなると、テクニックが無上であるだけに、それこそ鬼に金棒どころの騒ぎではないと思うのですが、この演奏はタカーチ四重奏団との初共演という要因からくる変異的なものである可能性も、また拭いきれないように思うので、今後も同じ顔合わせでの共演が継続リリースされるか否かは分かりませんが、いずれにしても今後の動きに注目してみたいと思います。<br /></span> ]]>
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<dc:subject>2001年以降の録音</dc:subject>
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<dc:creator>hkawahara</dc:creator>
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